こんにちわコノハです。
2014年のノーベル物理学賞が発表され
一躍有時の人となった天野浩名古屋大学院教授
同時受賞する事となった赤崎勇名城大名誉教授の
お弟子さんにあたることが分かりました。
↑天野浩 名古屋大学院教授
師匠と弟子で成し遂げたノーベル賞!
偉大な師匠との出会いがこれまでの大きな成果を
生むこととなりました。
そんな天野教授のヒストリーは以下より…
はじめに
天野 浩(あまのひろし)氏の幼少時代は
以外にもガリ勉タイプではなく、ソフトボールや
サッカーに夢中な、どこにでもいる普通の
少年だったそうです。
どちらかというと走る競技は苦手だったとも…
中学1年生でアマチュア無線に夢中になり
その後、電気工学系の大学へ進学する
きっかけとなりました。
静岡県立浜松西高校時代は
数学の問題を解くことに快感を覚え
夏休み中ずーっと難問を解く事に費やした
数学少年。その集中力は凄まじかったようです。
研究職へ進むきっかけは高校時代の校長先生が
薦めてくれた陽明学者である熊沢蕃山のコトバ
「憂きことの、なおこの上に積もれかし、
限りある身の力ためさん」という言葉に
強い感銘を受け研究者への道を志したそうです。
その思いは今でも持ち続けているそうで
何かを成し遂げる熱い心と集中力の人柄は
この頃、形成されたようですね。
中学時代で得たアマチュア無線での心地よい経験が
強烈に残っていた事で、実家からも近い名古屋大学
工学部電子工学科に入学しました。
そこから
研究の日々に没頭することになるのです。
チャレンジ精神旺盛な学生時代
1982年3回生だった学生の天野氏は
簡単に学位が取れたり卒論が簡単に書けそうな
テーマは選ばず、その研究が世の中にとって
画期的となる研究に取り組みたいと考えました。
当時、名古屋大学で研究室を開いていた
赤崎勇教授が取組んでいた青色LEDの研究が目にとまり
「これなら自分が世界で1位になれる!」と確信。
通常4回生の4月に研究室への配属が決定されるのを
3回生最後の3月にフライングで取り付け、その後
連日のように研究室へ通い詰める日々を過ごします。
赤崎教授が旧松下電器(現panasonic)在職中に
取組んでいたテーマ「ハライド気相成長による窒化ガ
リウム薄膜形成」を、天野氏が初研究テーマとして
引き継ぐ形で、その後卒論のテーマとして研究を継続。
1984年には赤崎教授と連名で
結晶成長学会誌にその研究結果が掲載される
こととなり、学生時代から頭角を現しています。
博士課程に進学する事は考えていなかったそうですが
赤崎教授や同じ研究生と議論をしたり研究に勤しんで
失敗を重ね考察に対するディスカッションを重ねるのが
とても楽しく、赤崎教授からの強い勧めもあり進学する事を
決めたそうです。
好きなことをずっと続けたいという思いが
このエピソードからも伺えますね。
偶然が生んだ奇跡!
博士課程中のある日、実験で使用する電気釜が
予定の温度にならず、通常より15%程低い
温度までしか上がらずも、とりあえず実験を
開始した所、それまで何度も失敗していた
実験が見事成功した!
その後、予定温度で実験した結果を比べたところ
これが後に言う「低温バッファ層の発明」であり
この発明により均一で亀裂の無い「窒化ガリウム薄膜」が
再現性よく得られるようになり、青色発光デバイスの研究が
急進展するきっかけとなったそうです。
若干24歳での大発見!
1987年博士課程の三年生になっていた天野氏は
NTT武蔵野通信研究所に短期留学します。
その研究過程で奇妙な現象に出会った事で
赤崎研究室に戻った後、その現象と先の窒化ガリウム
にマグネシウムを添加する等の2例組み合わせの実験を
実施し、世界初の成功を収める事となったのです。
その後、赤崎教授の助手として28歳の天野氏は
強烈に発光する青紫色発光ダイオードの実験的
試作成功にこぎつけ、再度世界の研究者から注目を集め
これにより窒化ガリウム青色発光素子の研究に
多くの研究者が殺到することとなりました。
研究者から第一人者へ
これまで不可能と思われていた研究開発を成功させ
更に青色発光ダイオードと青色半導体レーザーの開発へ
取り組むこととなった赤崎・天野氏は1992年に
当時としては1%で高輝度とされる青色発光ダイオードを
完成させました。
その年に上司であり共同研究者である
赤崎教授が永年退官となり、名城大学の教授として
迎え入れられる事が決まっていた為、赤崎氏から
天野氏へ「一緒に名城大学で研究を続けよう!」
と要請、これを天野氏が快諾しました。
途切れる事無く、それまで同様の研究を
続ける環境を得る事ができたのです。
名城大学に移ってからの研究成果が
1995年11月の日本応用物理学会誌へ掲載され
その論文を元に、今回ノーベル物理学賞を受賞した
中村修二カリフォルニア大学教授らの研究チームが
より効率の高い同研究成果を2ヵ月後の1996 年 1 月に
同じ学会誌に掲載しました。
しかしこの時の赤崎・天野両氏の研究発表は
その先駆的研究として評価され、高い評価を
同学会より得ています。
1986年には、赤崎研究室の下へ新技術開発事業団
(現在科学技術振興事業団)より開発依頼を受けた
豊田合成㈱が新規で立上げた「青色発光デバイス」
研究開発所の指導を委託し、1995年には商品発売に
至っています。
当時、科学技術振興事業団から豊田合成㈱へ
投資した資金は7億とされ、研究開発の成功から
商品開発へ至った後の市場売上げは2003年時点で
305億となっていて、十分すぎる見返りを得ています。
豊田合成㈱との商品開発が完成した1995年
それまでの青色発光ダイオード及び青色半導体
レーザの研究開発が節目を迎えたと判断。
次の研究テーマへと進むことにしたそうです。
その間1998年には助教授へ、2002年には
教授へと昇格し、現在は別の発光デバイス研究に没頭しています。
↑出典:youtube 受賞の天野氏 「本当かと驚いている」 NHKニュース
天野教授は現在出張中で、フランスの空港へ到着した所を
現地記者団に囲まれて取材に応じていました。
「私のような人間が受賞したというこ
謙虚な人柄をかもし出しています。
まとめ
「すきこそ物の上手なれ」とはよくいったもので
天野浩教授のこれまでのストーリーを辿ると
まさに地で行っている人だなーと感心しますね。
何か1つのこと、好きな事に夢中になって追求する事で
極める事ができるのはいつの時代も変わらないんですね。
最後に天野教授の略歴を紹介します。
名古屋大学大学院工学研究科 教授(2002年~)
<略歴>
1983年 名古屋大学工学部電子工学科卒業
1988年 名古屋大学大学院博士課程終了,同大学助手
1989年 名古屋大学、工学博士学位取得
1992年 名城大学工学部講師
1998年 名城大学助教授
2002年 名城大学教授
2010年 名古屋大学教授
<主な表彰>
1994年 オプトエレクトロニクス会議特別賞受賞
1996年 赤崎,中村とともに米国IEEE/LEOS
エンジニアリングアチーブメント賞受賞
1998年 応用物理学会賞C(会誌賞)受賞
1998年 赤崎,中村とともに英国ランク賞
2001年 丸文学術賞
2002年 武田賞
2003年 SSDM Award
2008年 日本結晶成長学会論文賞
2009年 応用物理学会フェロー,
文部科学省科学技術政策所ナイスステップな研究者
窒化ガリウム青色発光デバイスの開発における情熱、苦闘そして克服
編集後記
京都大学のiPS細胞を発明した山中教授に
優秀な右腕として「高橋」研究員がいたように
赤崎教授にも頼りになる天野教授という
右腕がいました。
お互いが信じた道を切磋琢磨しながら
研究に没頭し、ゆるぎない基礎研究を
完成させた事が、今回の受賞に至ったのでしょう。
「やりたい事をやる!」
それも没頭してやり続けることの
大切さが、今回の天野教授の軌跡で
理解できました。
でわでわ、また今度。